須方書店からのお知らせ
2020.03.25
久しぶりに、石田千さんの本を開いた。『桜だらけ』とタイトルが付いた文章に強く心惹かれた。長くなってしまうけど、全文引用したいと思います。楽しんでいただければ幸いです。
『桜だらけ』
町じゅう桜だらけになった。
きょう、あしたと待ちわびて、咲きはじめれば雨風が気になる。さきざき心配するのにくたびれて、いっそはやく散ってしまえばいいと思いつめる。
夜道を歩けば、花は短気をからかって、はぐらかすようにところどころで咲いている。くやしくなって、降ってくる花びらをつかまえて、あたためたきなこ豆乳に散らして飲みこんでやった。
牛乳ぎらいだから、かわりに豆を食べる。豆のほうがカルシウムもたんぱく質もあるにちがいないと応援している。豆を食べなかった日は、寝るまえ、きなこ豆乳をあたためて飲む。春は、なまの豆がたくさん出まわるから、このところ煮豆を食べるのが減ってしまった。
きぬさや、スナップえんどう、グリーンピース。そののち天豆枝豆とつづく。春風は、みどりいろの豆ごよみをつぎつぎめくる。
なまのグリーンピースが出まわるのはみじかい。豆ごはん、スープ、じゃがいもとバター煮、つぶして塩味のふうき豆と、あせって食べつづける。
やおやの奥さんに、豆ごはんはお米一合にさやつきで百グラムとおそわって、計り売りしてもらう。すじをひっぱって、さやのあいだを指で開くと、みどりの豆がぶらさがっている。しごいて出しながら、このあいだより粒がそろっておおきくなったとながめる。
きぬさややスナップえんどうは、和えものにする。あきびんに、酢みそをつくって冷蔵庫にいれておくと、すぐに酢みそ和えができる。
タコや青やぎでもあれば、ごちそうになる。いっしょにゆでた葱の青みがやわらかい。部屋が寒くてひとが呼べない季節はすぎたと、うれしくなった。
春さきは、葉ものもやわらかく、気づけば包丁をあまりつかわない。手でちぎったり、ぽきぽきと指で折ってすませてしまう。
もうすこしあたたかくなったら、キャベツも大根も、サラダがいい。せん切りキャベツのサラダは、千六本にレモンをしぼって、塩をふる。レモンの皮をすりおろして混ぜ、すこししんなりしたところを食べる。
父の好物の簡略化で、母は大根もレモンもうすい輪切りにして、交互にななめに並べて、塩をふった。そのほうがきれいでレモンも食べられる。このごろは、国産の薬のついていないレモンがある。
キャベツのことを考えて、そろそろ包丁を研いでおこうともくろみながら、今日はひとまず。しなびたごぼうを切ったら、刃先がよじれて指を向く。
小指のあたまに、五ミリくらいの噴火口ができた。爪もとれている。背中で秒針の音が響く。それからやっとお湯のように、血が湧いてきた。ちり紙は、ぐるぐる巻きつけたそばから、どんどん赤く染みていく。
しばらくおさえ、座りこんでいてもらちがあかず、靴をはく。左手を拝むように空にむけ、お医者にむかう。
桜並木の坂道で息があがってくる。おまえのせいだ、はやく散ってしまえとやつ当たりして登る。このさき十日、花見の約束がつづいていて、けがなどしているときではなかった。
待合室で手をおさえ、しなびたごぼうを恨んでいる。
時代劇のお侍が、山ほど悪党を叩ききって、いちばん強いのも倒して、汗をぬぐったときに、草むらで腰をぬかしていたのに斬られてしまう。
気弱なちんぴらが、もう罪を重ねないようにと説得されているうちに、怖さあまってピストルを乱射してしまう刑事ドラマも思い出す。
こまったネズミは猫を噛む。弱った冬をおろそかにして、しなびたごぼうで指を切る。気分がさき走って油断して、追いつめてしまうのは、ひとばかりではないのだった。
お医者は、指も料理しちゃいましたかと、湧きつづける血を綿で押さえ、薬を塗ってくださった。こわごわみれば、指先が三ミリほどとんでいる。
削いでしまっているので、縫えませんから、このままふさがるのを待つしかないです。二日はそのままで、あとは消毒にきてくださいと、包帯を巻いてくださった。
二日は、消毒をしなくてもいいですかとたずねると、出血が完全に止まるまで、いじってはいけないとのことだった。
消毒もときには毒になるので。そうおっしゃった。
なるべく手を上にしていてくださいといわれて、包帯の手をまた拝むようにして坂をおりる。消毒もまた毒になるんだってさあ。桜に報告した。
それから桜は散りはじめたのに、傷は魚の口のようになったままいる。指はすこしみじかくなるのかな。みぎの指とくらべて、消毒をしている。
会うひとごとに、おとしまえですかときかれる。なさけない花見つづきとなった。
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